確かに日本国憲法をチョー口語訳することによって
日本国憲法をもっと広く国民に知らせたいという
チョー口語訳の作成者の動機が
チョー口語訳から感じられる。
日本国憲法”超”口語訳とかゆるふわ法学徒日記とか
http://blog.livedoor.jp/holeguitar/archives/12261558.html
だが
それは
人に「やさしい」と言えるのだろうか?
日本国憲法がわからなければ繰り返し読め
というふうに諭すのが
やさしさであり大人の態度である
「読め」は昨今言われる「上から目線」であろうか
とすれば
「読みなさい」、か
「読みなさい」も上から目線であれば
人に教える仕事が成立しなくなってしまう
教師は「上から目線」でいいのだが
その「上から目線」を学ぶ生徒に不愉快な感情を与えなければいいのである
不愉快な感情を与えない方法は
学ぶ生徒を人間として扱う、である
カント曰く「手段のみならず目的として扱え」である
であれば
チョー口語訳してしまうことは
戦後作られた現代文である(明治時代に作られた大日本帝国憲法のような旧仮名遣いではない)
日本国憲法を「やさしさ」でチョー口語訳することが
逆説的に
実は
その態度が
「上から目線」を実現してしまっているのである
私は
チョー口語訳に対し
違和感を抱くのは
日本国憲法もテクストであり、
テクストであれば
そのテクストをそのまま読むのが
誠実な対応ではないのか
海外の論文、小説、哲学などの諸テクストを翻訳するのは
仕方ないとしても(日本はまれにみる翻訳大国である)
日本の現代文を訳すことはどういうことか?
現代文である日本国憲法を読めない層とはいかなる層なのか
私にはいまだもって不明である
日本国憲法は法なのだが
それはまた日本国内における諸法律を越えた
規範としてのテクストの性質を帯びている
日本で夏目漱石や正岡子規などの諸作品が近代文学の規範としてのテクストの性質が
日本近代現代文学における位置をしめているように
日本国憲法は日本の諸法律に対しての位置を示している
ということは夏目漱石を読むのが「困難」だから夏目漱石をチョー口語訳すればいいわけではない
ように
日本国憲法もチョー口語訳してはいけない
ひたすら
「読む」しかないのである
もっとわかりやすくいえば
聖書を読むのが子供時代に読むのが「困難」だからといって
キリスト教信者はチョー口語訳するだろうか
せいぜいしても
信者自身が解釈したイラスト付きのわかりやすいパンフである
つまりテクストそのものには手をつけていないのである
テクストを読むことが「力」になるのである
ユダヤ教信者は小さな頃から繰り返し「旧約聖書」を読むときく
(門前の小僧ということわざを日本人は忘れたのか)
繰り返し読め
それしか「理解」の王道はない
よろしくお願いします
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こんにちは。塚田です。実はちょいちょい浅井さんのブログを拝読していました。在日貧乏人って言葉のセンスとか大好きです。僕も使わせてもらっていいですか?
返信削除「キリスト教信者はチョー口語訳するだろうか」口語訳どころか、字が読めない信者のために教会のステンドグラスで絵物語にしていますよ。
僕はカトリックの洗礼を幼児期に受けたので、教会の日曜学校で絵物語と神父見習いのブラザーのお話で聖書の概略を聴いていました。また礼拝でもかなりフランクにジョークを交えつつ説教をされる神父さんもいらっしゃいますね。
コーランは字句そのものがアラーの言葉ということで、外国語に翻訳されたものはコーランとしての効力がないと解釈する場合もあるようですが。
「信者自身が解釈したイラスト付きのわかりやすいパンフである
つまりテクストそのものには手をつけていないのである」
口語訳もその性格のものであると僕は考えます。
書籍化にあたっても口語訳と原文を併記したレイアウトにする予定ですし、発表当時から原文を読むように呼びかけてきました。超口語訳はあくまで僕というフィルターを介した間接的なものでしかありませんし、粗が多々あります。
確かに憲法は法律文としては口語体で書かれたものでしょうが、日常で「崇高な理想と目的」って言いますか?
あくまで呼び水にすぎません。つまり憲法に目をむけてもらうための「手段」です。
そしてそもそも憲法そのものが人権という「目的」のための「手段」です。
曰く
第十章 最高法規
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
という条文が最高法規という章にあることから明らかでしょう。
僕はジャーナリスト、もしくはなんらかの表現者となることを志す者として、「常に素朴な疑問に寄り添うべし」(定言命法!)を矜持とします。
啓蒙という言葉があまり好きではありませんし、人を啓蒙できるような教養は持ち合わせていませんが、超口語訳という選択がその目的に必ずしも適わぬものではないと考えます。
PS
鼻から馬鹿にしてかかる人もいますが、浅井さんのような正当なご批判は本当に助かります。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
返信削除「啓蒙という言葉があまり好きではありませんし、人を啓蒙できるような教養は持ち合わせていませんが、超口語訳という選択がその目的に必ずしも適わぬものではないと考えます。」啓蒙という言葉に僕も一時期嫌いでしたが、だが、啓蒙とは何かを読むと、啓蒙が人間を成長させるには必要だみたいなというカントの文章を読むと啓蒙が重要ということになります。
だが私も他人を啓蒙する教養や姿勢はないので、そのものを読め、としか言い様がありません。
あなたの動機は理解できます。
ですが日本国憲法もまた規範的なテクストであり、そのテクストは戦後、日本国民にとってはまるで聖書のような位置にあり守られていたのです。まさに「改憲派
」がいうように1字1句さえ修正を許さない態度として守られていた。
それは、まさに日本国憲法前文に書いてあるように崇高な目的を達成するためです。
それが第二次大戦で被った日本国民の切なる願いではないでしょうか
まさに崇高な目標を達成することにより、日本国民は啓蒙段階(青年期)から脱出でき初めて「大人」になるのです。
であるがゆえにそのものを読む、味わう、という敬虔な気持ちにおいてしか達成はむつかしいです